性格や個性が「ない」とはどういうことか
世界中の人々が性格なんてものをいちいち気にしていない時代がありました。
紀元前300年頃に古代ギリシアでテオプラトスという学者が、「性格ってこんな感じでいくつかあるんじゃないの」と言い出して、西暦100年過ぎ(2世紀)頃にガレノスという学者が人間の性格(気質)を4つに分類してみようとしたり、といった動きはあったものの、時代の大きな流れの中で性格はいったんないものとされていくようになりました。
再び性格が注目されるようになったのは19世紀になってから。ずいぶん長い空白期間です。農業が発達して、コロンブスがアメリカ大陸を発見し、産業革命が起きて人々の暮らしが近代化に向かってもなお、「性格?何それおいしいの?」というレベルでした。
では、なぜそんなに長い間、誰も「性格」について考えようとしなかったのでしょうか?
ヒントは世の中の仕組みにあります。
身分固定のときには正確は不要
世の中には、流行り廃りがあります。
車ができる前の交通手段といえば馬車でしたが、現代では馬車でスーパーへ買い物に行く人なんていません。逆に、1990年代まで、スマートフォンで買い物したり動画を見たりすることなんて考える人は誰もいませんでした。
それと同じように、「人間の性格」のことは長い間ずっと無視されてきました。
なぜかというと世の中で重要なのは、個人個人の性格の違いよりも、その人の身分がなんであるかだったからです。
身分が決まれば、世間の評価が決まる
たとえば、日本でいうと江戸時代は士農工商という身分制度がありました。その人が武士であるか、農家であるか、大工であるか、商人であるかという身分の違いは、「どんな性格なのか」ということよりもはるかに重要な要素だったです。負けず嫌いだとか、優しくて我慢強いとかという特徴があったとしても、どうせ身分は変わらないのだからあまり深く考えても仕方がないわけです。
平安時代なら、貴族であるかどうか。戦国時代なら武力を持って他国より強い存在でいられるかどうか。そういうことで、世間的な評価が決まってしまいますから、みんなそっちに引っ張られます。
要するに、その人が偉い人かどうかは初めから決まっているのだから、性格によって現れる個性なんてどうでもいいよね、という話です。
いくら優しくても結婚相手は選べない
現代であれば、優しくてマメな性格をしている男性は女性にモテます。
しかし、人類史上ほとんどの時代で、結婚は親や他人が選んできた相手と結婚するものでした。性格の良し悪しが恋愛の結果を左右しないのであれば、みんな性格のことなんて気にするはずもありません。
仮に、恋愛結婚のようなことが起きたとしても、自分がなぜ相手に惹かれているかということの原因を、「相手の性格が好き」とはっきりと自覚していた人間はほとんどいなかったのではないでしょうか。
自由度の高い社会でこそ性格の違いは生きる
こうして考えると、現代はある意味特殊な時代だといえます。
個性とか、性格というものが世の中でどう捉えられるかというのは、「社会が人間の多様性を認めているか」「職業選択の自由」「結婚相手の選択の自由」があるかどうかに大きく影響されるということです。
言い換えれば、自由がないところには性格のような概念は不要ということになります。
かつて植民地支配をしていた西洋人は奴隷に性格があると考えていたでしょうか?
現代の日本なら、障害者であったり治療困難な重い病気の患者の個性について十分に考えられているでしょうか?
心理テストで自分の性格を知りたくなるのは、「自分には性格がある」と思っている(信じている)からです。他人に対してはどうでしょうか?
このことを考えるのは、自分を知るという意味でも重要な課題になるでしょう。